路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1
中野区教育委員会は昭和49(1974)年から、文化財の保護・普及をはかるため、区内の文化財に関する実態調査を行っている。区内文化財全般にわたる基礎調査の結果、区民から寄せられた「路傍の石仏を護りたい」という声に応えて、石仏に対する実態調査が実施された。北から南へと区内を七コースにわけて収録。
中野区教育委員会は昭和49(1974)年から、文化財の保護・普及をはかるため、区内の文化財に関する実態調査を行っている。区内文化財全般にわたる基礎調査の結果、区民から寄せられた「路傍の石仏を護りたい」という声に応えて、石仏に対する実態調査が実施された。北から南へと区内を七コースにわけて収録。
哲学者・井上円了博士が明治36(1903)年から大正4(1915)年にかけてつくった哲学堂公園は、明治時代末における東洋文化の発揚と仏教の再生をうかがわせる。園内の貴重な文化財を保護するために行われた、古建築と周辺環境の調査資料を収録。常識門、髑髏庵、鬼神窟、無盡蔵、演繹観、四阿を調査対象とした。
哲学者・井上円了博士が明治36(1903)年から大正4(1915)年にかけてつくった哲学堂公園は、明治時代末における東洋文化の発揚と仏教の再生をうかがわせる。園内の貴重な文化財を保護するために行われた、主要建築物の調査資料を収録。哲理門、四聖堂、宇宙館、絶対城、六賢台、三学亭を調査対象とした。
中野区江古田3丁目にある江古田氷川神社神楽殿(舞楽殿)は弘化4(1847)年に建立されたと伝えられている。後世に民俗資産を伝えるため、中野区教育委員会が昭和59(1984)年に行った現地調査の報告を収録。
中野区内に存在する四十数箇所の寺院は、中野の歴史を知る上で欠くことのできない由来をもっている。本報告書は平成5(1993)年~6(1994)年に行われた区内寺院の仏教美術を対象に調査したもの。江戸時代までの作品、218件(436点)を調査し収録。
哲学者・井上円了博士が明治36年(1903年)から大正4年(1915)にかけてつくった哲学堂公園は、明治時代末における東洋文化の発揚と仏教の再生をうかがわせる。公園の文化財的意義を把握するために行われた、井上円了の染筆による公園内の聯や扁額などの調査資料を収録。
江古田一丁目34番に所在する御嶽遺跡の発掘調査報告書。本調査は都営住宅立替工事に先立ち行われた。本遺跡は、昭和14年に樋口清之氏によって縄文土器・弥生土器・石器が採集されたことによって知られた遺跡である。本調査は1994年5月9日から9月30日まで行われ、舶戴陶磁器などを出土した。
野方三丁目25番に所在する北原遺跡の発掘調査報告書。本調査は共同住宅建設工事に先立ち行われた。本遺跡は、昭和14年の樋口清之氏の分布調査によって、山本邸東南方遺跡として「中野区史」に記載されているものである。本調査は1996年4月12日から4月27日まで行われ、良好な土器を伴った住居跡3軒を調査した。
松が丘一丁目34番28号に所在する哲学堂公園内遺跡の発掘調査報告書。本調査は、区立哲学堂公園野球場地下弓道場建設に伴う事前調査として行われた。哲学堂公園は、明治36年に井上円了が、精神修養の場として、哲学堂を開いたことから始まる。この付近一帯は、和田義盛の館があったと伝えられ、江戸時代には榊原氏の所領、明治11年頃には子爵五辻安仲の別邸があり、明治12年~14年までその一画が江古田小学校の前身の仮校舎として利用されていた。本調査は1992年12月9日から1993年1月29日まで行われ、調査された道路状遺構は、江戸時代後半から明治初頭の段階ですでに存在していたと推定された。
江戸時代の文献にある「中野」を抽出しまとめた地域史料。第1巻には地誌と紀行・随筆を収録。